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Expert Design と Diffuse Design の間、そして自由時間

  • 安西

    じゃあ、例えば僕は昨日もある、なんていうかな、スタートアップをサポートするような企業の人と話をしてたんだけどね。そこの会社、まあいろんなことやってるんだけど、イタリアで個人として薬買う時に、ホームドクターから処方箋をもらってそれから、薬局行って。

  • 阿部

    そうですね。

  • 安西

    うん。医薬品を買うわけじゃないですか。で、ヘルスケアとか、そういう方向のサービスを数年前から立ち上げている会社があって、そこをサポートしてるんだけど、特にパンデミックの時なんかは薬局に買いに行けなかった人たちが多かったんで、薬局から薬を買ってきてあげるとかさ。そういうサービスをやってきたんだけど、やっぱりそこで出てくる話は、なんて言うか、薬届けるだけだとフードデリバリーみたいな話になるでしょ。で、やっぱりそこが彼らの目指しているものじゃなくて。いわばそこの地域の人たちのコミュニティはうまく機能するかっていうところまで入っていくわけですよね。困っている高齢者がいればどう助けるかとかさ。で、サービスのプラットフォームにはインドだとかイギリスだとかいろんな国のソフトウェアのプログラマーが入っていて、プラットフォーム立ちあげてやってるわけなんだけど、すごくベースにはテクノロジーがあるんだけど、考えていることが非常に何というか、泥臭いコミュニティーをどうやっていくかっていう。

  • 阿部

    humanity がありますよね。

  • 安西

    そう。我々が目指してるのは単に届けることじゃないよねっていうように、そのグループの中で発言する人がいて、そりゃそうだよね、って。当たり前じゃない、って。こういう風に言い合うような関係がないとなかなかうまくいかないわけじゃない。サービスの枠から外れたところをどう金にするんだ、なんて最初にいってたら、なかなかこうはできないよね。

  • 阿部

    はい。おっしゃる通りですね。今、そういう仕組みを行政コストでまかなうことって、おそらくもう国内の地方自治体にはできないんですよ。で、そうしたものを、こう新しいコミュニティの形だとか、マンズィーニが言うような、流動的なコミュニティ2だとか、あるいはこう民主化されたコミュニティなのかな、そういった形で代替していくっていうのはストーリーとしては充分にありえる話で。まあ日本の中でもそうした動きが全くないわけではないんでしょうけれど、コスト負担には耐えられない状況になっちゃっている。それが一つのネックですね。一方でイタリアには相互扶助を尊重するような社会の仕組みがあって、その中に地域、地方かな、社会協同組合的な存在と、こう親和性が高いという部分はあると思うんですよね。で、私自身もイタリアで一番長いお付き合いをしている人が薬剤師さんなんですね。2マンズィーニ氏の語るコミュニティとは交通や通信技術の発達による、空間距離の制限を受けないコミュニティであり、「場所に紐付き、濃密で安定した、長く続く絆の」ネットワークからの移行モデルである。また現代の〈液状化〉する社会を背景に置くことで一種の硬直的な社会形態から、連続的に生成変化を起こす動態となる。詳細はエツィオ・マンズィ ーニ著『日々の政治』 BNN 新社(2020)

  • 安西

    ああ、そうなんだ!

  • 阿部

    で、COVID の感染患者に医薬品を持っていくのは本来赤十字がやらなきゃいけなかったらしいんですけど、それもできなかったらしく。結局は全く防護服も着ていない無防備な薬剤師が自転車で一軒一軒回るしかなかったって言うんですよ。そういう話を聞いていると、さっきの医薬品を届けていくデジタルコミュニティのスタートアップが社会的にも重要性を帯びてくるっていうのは、すごくイメージできます。

  • 安西

    だから第二象限を、何ていうか下に見ちゃいけないわけですよね。

  • 阿部

    はい。テキストを表面的に読み込んでいくとこれからはセンスメイクなんだっていうイメージになってしまうんだけれど、テクノロジーが実現するブレイクスルーは今の社会には重要ですし、そこがベースになった上で実現しうるセンスメイキングの領域、ビジョンがある、といった理解をしておかないと、ある種の閉塞を招いてしまう可能性がある。

  • 安西

    センスメイキングとか意味だとかこういったことが不要だって思われた時代があってね。どちらかと言うと科学だとかテクノロジーに集中した時代があって。で、意味を排除したことが問題であって。排除するものじゃないっていうことが皆さんの間でだんだん分かりつつあると。でもそこに合わせた体制が整っていない、あるいはその付き合い方がよく分かってないっていうことを書いたのがベルガンディであるということですよね。

  • 阿部

    私が一番最初につまずいたのは、もうご存知の通りで「意味」の部分ですよね。意味っていうものを日本の社会に照らして考えていくと、例えばアレクサンドル・コジェーヴは日本の社会を純粋なスノビズムと表現していて。日本人は人生における意味、生きることの意味を重視していないからこそ、要は切腹するし神風するんだっていう、まあ一方的なフィクションストーリーを語っている。そんなこと有り得ないんですけれど、ただそこで日本社会における意味っていうものを改めて、例えばこう、社会の中に取り入れていく時、どういう構図、あるいは角度でいけばいいのかとか、ちょっと戸惑ったんですよね。今は直接やり取りをさせていただいて、いわゆる意味の形成においては基本的には与えられた場所であったり、様々な領域における、文化の創造なんだというところで、私は一気に視界が開けていったんですよ。

  • 阿部

    まあ、私の場合は理解の過程でそういうプロセスを踏んだんですね。たぶんマンズィーニやベルガンティのテキストを読まれていない方が、意味のって言われると、戸惑う部分があるんだろうと思うんです。あるいは読まれていても、私のようにつまずく方もいるんだろうと思うんです。そこは問題解決からのセンスメイキング、それらの反復と集積、そして文化の創造を描いていくことが大切である、と。そこから持続性、つまり長期的な価値の形成に取り組んでいける。今のお話をそのように理解しています。

  • 安西

    あのね、僕が、ええと note に書いた、例の LVMH が生産地表示の姿勢を日本のテキスタイルメーカーに対して知らせていた記事、読んでいただいてます?

高級ブランド最大手の仏 LVMH のベルナール・アルノー会長兼最高経営責任者(CEO)が訪日中、松野官房長官と面会し、傘下ブランドの商品で日本製の生地などを使った場合、その産地を明記することで一致したという 2022年5月2日付の日経新聞電子版の報道記事から。生産者の尊厳を尊重する姿勢は国際マーケティング的に有利である、という判断が想像されるものの、その明確な意図は公表されていない。

なお安西氏執筆の記事については右リンクから。 https://comemo.nikkei.com/n/n0f174ba68264

  • 阿部

    はい、拝読しております。

  • 安西

    あれを書いた以降もいろいろ考えているんだけど、メイドインイタリーと、例えばメイドインジャパンは何が違うかっていうことを考えたときに、メイドインジャパンは LVMH を前にして価格交渉ができない。メイドインイタリーは価格交渉ができる。で、要するにアルノー会長が東京行ってああいうこと政府と話をしたっていうのは、まあ今後いろんな動きがあるんだろうけど、基本的に日本のテキスタイルメーカーが、自分たちが LVMH と付き合ってるっていうことを外部に言えないと。

  • 安西

    それから LVMH が買ってあげるんだからこの価格で出してくださいみたいなところ。もちろんそういった関係はイタリアのテキスタイルメーカーと LVMH の間でも無いわけじゃないと思うんだけど、どこが違うかというと、例えばイタリアのテキスタイルメーカーの社長が LVMH のバイヤーと価格交渉した時に、君たちは俺たちの、このイタリアの生活スタイルいいと思うだろう? で、この生活をするにはこれだけのプロフィットが必要なんだ。だからこれだけ要求するんだっていうことが口に出して言えると思うんですよ。あるいは口に出さなくてもそういう雰囲気を醸し出せるわけですよ。

  • 安西

    でも日本のテキスタイルメーカーの社長は、俺たちの生活いいと思うだろう?だからこれだけのプロフィットが必要なんだよって言えない。自分たちのライフスタイルに自信がないし、自分たちの人生観が世界の、なんて言うかな、人々に貢献してると思ってないわけですよ。イタリアの人たちは自分たちのライフスタイルが世界に貢献してると思ってるわけですよ。で、そういうところが結局においてこの第四象限を作っていく根底になっていくわけですよね。だから長期的なところを考えなくちゃね、じゃなくて、もう何ていうか、長期的なビジネスも関係なく、我々人間の生活の基本は自由時間をいかに確保していろんなことをするかっていうことを、メインにおいてるのがイタリア人じゃないですか。

  • 阿部

    その通りです。

  • 安西

    でも日本においてはまず自由時間を確保するってことが第一の優先順位になってない。自由時間というと、まあ定年後に奥さんと一緒に旅行行こうかみたいなそういう話が、あるいはすごく決まった週末の、何ていうかな、余暇の時間っていう。それこそ余暇っていうのは「仕事の合間の余った時間」ってことですからね。要するに Tempo libero(英 : free time)じゃないんですよ。(笑)そこからして概念の大きな違いだと思うんだけど、その部分に踏み込まないと価格交渉で負けるんですよ。だからこの第四象限が心の豊かさだとなんとかって、もちろんあるんだけど、結局これがないから、いかにビジネスの場面で損してるかっていうこと、そこに気付かないとこの話がいつも、その話いいですね、で終わっちゃうわけですよ。(笑)

  • 阿部

    改めて理解しました。異なる文化背景を持つ相手から見てどう思われるか、ということに意識して目を向けていく必要があるということなんでしょうね。

  • 安西

    Tempo libero はイタリアの中で一番重要な話だっていうこと。日本では相変わらず高度成長の時のウサギ小屋でただひたすら働いて、安く高品質で的なモノが良いっていうあの世界観が、あるいは人生観が、まあもちろん若い世代にはだんだん違った考え方が出てきてるんだけど、でも世界に対して日本のライフスタイルがこれが良いだろう、羨ましいだろうって思ってるって言えるような所にはまだ至っていないんですよ。

「ブルネロ・クチネリ」的経営を念頭においたコメントとも読み取れる。本書でも触れられているが、同社は 1979 年創業のイタリアのソロメオ村を拠点とするラグジュアリーブランド企業で、既に仏エルメス(1837 年創業)と同格のブランド評価を受ける企業へと成長している。その背景については、氏の他メディア連載等ですでに数多く取り上げられているが、ローカルにおける「文化創造、そして文化創造への貢献」が成長の主な理由として挙げられている。少々屈折した見方をすれば、同社はそれゆえに後発企業として高価格帯事業に参入しつつも市場を納得させるコンテクストを構築している。

  • 安西

    日本の、いわゆる余暇っていうのはまあ、相変わらず競争原理の中で言ってるわけだよね。その辺りがこう、みなさんに伝わっていかない。僕は前にも書いたんだけど、人生観っていうのは日本だとお坊さんの話だとか、あるいはすごく年取った有名作家が語る、みたいなところがあって、現役世代の人生観っていうのはあんまり語られないわけですよ。で、枯れた、人生とにかく欲がなくなった時が一番なんだよみたいな、そういう話が巡っていくわけですよね。で、もちろん欲のコントロールっていうのは人生ですごく大切なんだけれど、やっぱり欲がなくなった時がいいとか、それは現役世代については適用できないわけですよ。

  • 阿部

    よくわかります。

  • 安西

    単純だっていえば単純な話なんです、自由時間の話って。(笑)その自由時間で、家族と一緒に過ごすとか、友達と一緒に過ごすとか、すごくありきたりな話になっちゃうんです。でも、その時間に家族や友人の笑顔を見るのが大事で、そこを確保するのがいかに大変かってことじゃないですか。要するにイタリアは国をあげてそういうことやってるわけです。そこがなくて、生産効率の話とかいろいろと。自由時間が大切だからこそ、例えば職人があるものを作るにあたってのプロセスの時間の長さっていうのがより評価されるんですよ。日本のなかでそれこそ昔言われた、残業ばっかりやってる社会環境においては、職人が何時間かけてもあまり尊敬されないじゃないですか。

  • 阿部

    なるほど。いや僕も今のお話を聞いていて、例えば労働環境っていうのは日本の場合、改善すべき点は多々多いんだろうなとは思うんです。で、最近思うのは生産過程そのものが高度化され合理化されて分業化し、洗練されていった結果として、社会学でいうところの「疎外」みたいな状況がかなり出てきてるんじゃないかな、と。この前、某衣料品店に行って。そうしましたら、目の前の棚一面に 50 色の靴下がびっしり、綺麗に 10 足ぐらいずつ並んでるわけですよ。で、そうした光景を目の当たりにして、この中から一色を選べる自分が豊かに思えるかっていったら、到底思えない。むしろ、ここまで色数品数も揃えましたっていう発想のなかに、そもそもリアルな人間生活は想定されていたんだろうかという疑問、言ってしまえばある種の寂寥感を感じたんですね。

  • 阿部

    昔の古典経済学でいうところの労働疎外のような状況が今の日本社会の中にこう、歴然とある、と言う気がしたんです。で、そうしたものを見直していく手段としても、この第四象限の「Cultural activists」っていう象限自体のプレゼンスっていうのは非常に大きいんじゃないのかなっていう気がして仕方がなかったわけです。マーケティングサイドからの視点だとそこは見えにくいですよね。

  • 安西

    うん。で、第四象限の話って時に、いわゆるハイカルチャー的なね、芸術とかももちろん含むんだけど、そこだけ見えるっていうのかな…。いやこの間、4 月の終わりにベネツィアに行って、ホモ・ファーベルっていうクラフトの祭典に行ったんですよね。で、つくづく思ったのは、美しいっていう体験、あるいは美しいと言葉に出せる領域が世の中で減ってきたなということだと思うんですよ。例えば女性に対して美しいって言ったらルッキズムで批判されるわけですよね。だから、そういうことが言えない。コンテンポラリーアートの世界では、もちろん美しいってのはいいんだけれど、もっと重要なのはアートヒストリーに対してこの作品は貢献しているかどうか、新しいページを開いているかどうかが一番の優先順位であって、美しい美しくないっていうのは二番目以降の順位になる。ということでコンテンポラリーアートの世界でも美しいということが表だって、何も考えずにはなかなか言いにくいような状況がある。そういうなかで唯一人間が今、全く躊躇せず美しいといえるのは自然の絶景だったりするわけですよ。

  • 阿部

    はい。

  • 安西

    で、それも変な話だよねって。(笑)で、そういうなかで割とまあ美しいといってもいいのがクラフトの世界だったりもするわけですよ。クラフトっていうのは素材と技術の伝承がメインだから。イノベーティブなものが出ていないわけじゃないし、そういう試みをする人がいないわけじゃないんだけど、どちらかといえば完璧に調和のとれたフォルムで、非常に丁寧な仕事をしているというところで初めて美しいと言えたりするわけですよ。で、この美しいっていう言葉が限定されるようになってる今の世の中は、第四象限の文化のところで考えた時にはあんまりいいことではなくて。やっぱりこの美しいってことをもう一度復権できるような動きをどうつくっていくかっていうのは、まあ最近考えていることなんですよね。

文化的素養への言及と同時に、欧州社会の奥深さが一連のコメントから窺える。欧州社会のある姿、あるいはその規則性を(統計学的)推定を含めながら理解していく、ある種の演繹的思考と思われた。過去データからの帰納的アプローチ一辺倒では全体性は見えない。

  • 安西

    で、まあ僕、最近特に Podcast で哲学史とか色々聞いていて。特にアテネ以前のイオニアとかシチリアの、あのあたりの哲学、自然派哲学みたいな、割と何度も聞いてるんだけど、そういう時に、あの時代の自然派、自然をどう理解するかっていうこととか、倫理をどう理解するかとか、あるいは政治をどう理解するか、それから美学ですよね。いくつかのテーマがある。で、アテネ以前のロゴスが強いとは思えない時代の美学とは何だったのかなっていうことが結構重要かなと思うんですよ、今の時代において。おもしろいのはアテネ以前の哲学っていうのは、アテネは貴族のポリスだったから、現在のトルコであるイオニアだとかシチリアの商人だとか貿易商がメインで、そういったところでは貴族的ではないから自由に批判的議論ができた。で、それが哲学の誕生を招いたっていうあたりですよね。そういう意味で、この第四象限のカルチャーっていうのは実はその第一、第二象限のビジネス活動に対する非常に活発な批判ができてこそ、第四象限が活きるんだっていう根拠になるわけですよ。

  • 阿部

    はい。

  • 安西

    ビジネスが活発であるからこそ、そういった批判的なカルチャーができるっていう、それいい話だと思うんですよね。(笑)従属のあるところでは誰かに従うしかないわけで、そういう意味で言うと東洋哲学、例えば仏教だったりヒンドゥー教だったりとか、似たような考え方は東洋にだってあったんだけど、なぜその後の歴史のなかで批判的なカルチャーが体系化されなかったか。ギリシャ哲学の脱宗教という試みですよね。かつてのいろいろな自然現象に対して宗教的な分析はあったりするんだけれど、それはやっぱり科学的な論理と宗教心がくっついているなかで語られてきたわけです。で、それを分けようとしたのがその紀元前 600 年とか 700 年のギリシャの人たちなわけです。その後、つまりソクラテスとかプラトンとかアリストテレスとか、あのあたりがすごく強くなるわけじゃないですか。でもその後の考え方がだんだんとキリスト教哲学の中に入っていて、今度またうまく利用されるわけですよ。そうすると宗教心と科学的な考え方がまた合体しちゃったりするわけですよね。で、そこがもう一度花開くのがルネサンス。そういうエモーションなことと、理念的であるとかあるいは論理だとか言うことをいかにこう区分けしていくかっていうことで、ずっと西洋は戦ってきたわけですよ。で、その戦いぶりをひとつの体系化したものとして成立させてきたわけじゃないですか。それがやっぱり西洋文化の強さですよね。

  • 安西

    そういう考え方があるからこそ、歴史があるからこそ、この第四象限のところに行くのを戦略的に作れるわけですよ。だから日本でいま例えば、割と新しいビジネスに敏感な人たちが宗教的組織の調査をしたりとか、調べたりするのは、そのパッションとか情熱とか論理の間の、あるいは宗教心の間の兼ね合いがよくわかんない。だから一気に宗教的なことに走ったりするわけです。で、それが自己崩壊を招いたりするわけですよ。

  • 阿部

    そうですね。おっしゃる通りです。私もサラリーマン時代、もし当時の会社の辞令があと一週間早かったら、例のサリン事件で私おそらくこの世にいないですから。

  • 安西

    ああ、そうなんだ。

  • 阿部

    そういうことも有りました。で、宗教という観点で考えていくと、これは信仰心の強さなんだなって改めて思ったのは、例えばルターという人物の存在は、基本的に善き存在として捉えられていると思うんですよ。でもイタリアで話聞いてると、ルターは心の狭い人っていう意見もある。宗教に対する、なんて言うかな信仰心の深さっていうのは、外部からはなかなか分からないところあるんだなあって実感しましたね。

個人的な経験で言えば、Diffuse design、あるいはセンスメイキングの領域に、「深い人生観、あるいは人間の生き方」といった観点が相応に含まれることを、私は以下の経緯をもって理解した。ロベルト・ベルガンティ氏も「意味のイノベーション」を語る際、映画の Life is Beautiful、あるいはフランクルの夜と霧といった作品を例に挙げる。

  • 阿部

    で、ちょっと話が違うかなと思うんですけれど、私がつまずいた「意味」のところで、僕は周りのイタリア人に、人生における深い「意味」って何なんだっていうことを質問したんですよ。自分で答え出せなかったもんですから。そうしましたら、これを読めと言われたのが、作家(ナターリア・ギンツブルグ)だとか詩人(サルヴァトーレ・クァジーモド)だとか、あるいはアーティスト(カルラ・バディアリ)で、その人たちの本が今、目の前で山積みになってるわけです。しかしよく見てみるとすべてアンチ・ファシズムの作家やアーティストだったりするわけです。で、僕はイタリアという社会に首突っ込み始めて 10 年近く経つんですけど、それでもやっぱりわかっていなかった、そういう部分でもあるんですよ。

  • 安西

    うん。

  • 阿部

    で、まあ今の宗教のお話でもそうなんですけれども、いかにこう、何て言うかな、その土地の生活や人生観、思い入れとか、強さっていうものがいかに見えづらいかっていう、ひとつの例なのかなっていう気がしましたね。で、それはやっぱり第四象限のなかにも重なってくる。そういう構造、シチュエーションをやっぱり感じるんですよ。

  • 安西

    そうなんですよ。だから第四象限に関してかなり考えていかないと、さっき最初に言ったように問題解決から引っ張ってきた意味のイノベーションの集積が文化になるっていう、この構図やポートフォリオがチェックしづらいわけですよ。

  • 阿部

    はい。やはり4つの象限のなかでは一番わかりやすく見えるんですよね。で、カルチャー、文化を作っていくことやセンスメイキングを通じて、価値のメカニズムの中心にはやはり意味が入ってくるんだっていうストーリーは、まあ安易に描こうとすれば描けてしまう。しかし第四象限は、かなり丁寧に見ていかなければ全体性は見えてこない。

  • 安西

    だから少なくとも、さっき言ったインテリアデザインとウェイターとお客さんとの関係におけるロウソクみたいなことをいろんなシーンで考えることだと思うんですよね。それが横断的に、立体的に物事を作り上げていくひとつのプロセスになり得るんだということですね。

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